215577 ランダム
 HOME | DIARY | PROFILE 【フォローする】 【ログイン】

沖縄自治研究会

沖縄自治研究会

琉球救国運動と公同会事件にふれて

第5回 定例研究会 第2部 明治沖縄の自律構想と運動
報告 『琉球救国運動と公同会事件にふれて』
2004年8月7日(土)
沖縄大学助教授 屋嘉比収


〇司会(仲地博)  午後の部を開始したいと思います。ゲストスピーカーで沖縄大学助教授の屋嘉比収先生にお越しいただいております。「明治沖縄の自律構想と運動」というテーマでご報告をお願い致しましたところ、快諾をして頂きまして、宜しくお願い致したいと思います。


〇屋嘉比収  屋嘉比です。どうぞ宜しくお願い致します。沖縄自治研究会につきましては、新聞等でいろいろ勉強させて頂いています。これまでも自治研主催の講演会や講座に参加したかったのですが,他の用件とかち合ってしまい、なかなか参加することができずに残念に思っていました。今回、声をかけていただき、たいへんうれしく思います。
 今日、私に与えられた報告の課題は、「明治沖縄の自律構想と運動」というテーマです。僕自身が、これまでの沖縄自治研究会の経緯や中身と、今日与えられたテーマとどういうつながりがあるのか、まだ明確に把握しているとはいえませんが、与えられた責務を果したいと思います。さて、時間が限られていますので,さっそくですが本題に入りたいと思います。レジュメ二枚と資料三枚を、お手元にお配りしています。それに沿いながら、この「明治沖縄の自律構想と運動」というテーマについて、現在の沖縄近現代史の研究状況,主として西里喜行氏と森宜雄氏の研究成果に大きく依拠して話を進めることになると思います。おそらく、基本的な内容について話すことになると思いますがどうぞ宜しく御願いいたします。
 ご承知のように、沖縄は近代以前には、日本とは独自の琉球王国を形成していました。その琉球王国は、一九世紀後半に近世日本が黒船来航に象徴されるウェスタン・インパクトを受けて近代日本が国民国家を形成していく過程において、明治国家に併合され沖縄県が設置されます。その近代日本の国民国家の形成過程で琉球王国が併合され、沖縄県が設置されることに反対するいくつかの動きがありますが、その動きを「明治沖縄の自律構想と運動」としてとらえて、その代表的な二つの動きについて話をしようと思います。
 近世の琉球王国というのは、これまで一般には「幕藩体制の中の異国」として認識されています。それは,琉球が、近世期日本の体制である江戸幕府の幕藩体制の中で異国として位置づけられていることを表しています。つまり、日本の枠内という視点からとらえると琉球(沖縄)は異国であるという認識です。それに対して、最近、近世琉球が幕藩体制の異国という事を認めつつも、琉球が薩摩の支配下にありながら中国と進貢交易を続けていることを強調して、幕藩体制下で中国との対外関係を重視する意味から、「従属的二重朝貢国家」(豊見山和行)という指摘もなされています。それは、先ほどの幕藩体制の中の異国という指摘が日本という枠組みからの視点であるのに対して、琉球と中国との対外関係を重視して強調する視点から近世琉球を従属的な二重朝貢国家としてとらえる指摘だと言えるように思います。そして、その近世琉球が近代になってどのように転換していったのか。その転換が、いわゆる「琉球処分」と呼ばれているものです。
琉球処分は、一般的に琉球王国が解体されて近代日本国家に併合される一連の過程をさして言われますが、狭義には廃藩置県によって琉球藩から沖縄県が設置された1879年をさす場合が多いといえます。それに対して最近、「琉球処分」の過程そのものを二つに区分けすべきではないかという森宜雄氏の指摘が出ております。一つは、廃琉置県という過程。これはすでに西里喜行氏も指摘されていることですが、その琉球処分の過程を、1872(明治5)年の琉球藩の設置から1879(明治12)年の沖縄県の設置までを,廃藩置県という行政過程における処分の過程としてとらえ、それを廃琉置県過程として認識すべきだという指摘です。もう一つは、79年の廃藩置県で行政的な処分はなされたといっても、実質的な明治国家への琉球の併合過程はその後も続いており、その79年以前、以後と別けて琉球併合過程ととらえる指摘です。この併合過程において、旧琉球王国の士族層が日本国家の中に参入していく。つまり、近代日本の明治国家が琉球を上から統合しただけでなく、沖縄側の旧琉球王国の士族層が下から日本国家の中へ参入することによって琉球の併合が完成するという認識です。その過程を、前述の行政過程としての琉球処分とは別に琉球併合過程としてとらえて、琉球処分の過程を二つの過程に区分して認識すべきだとする指摘です。この検証については細かな議論になるので、ここではこれ以上ふれませんが、琉球処分期の考察において、そのような認識が最近出ているということを述べておきます。
 これは無論、琉球王国から琉球藩、そして沖縄県という琉球処分の過程というのは日本と琉球との関係だけではなく、近世期における中国を頂点とする東アジアの伝統的な宗属関係が西欧列強による東アジア進攻によって崩壊していく歴史が大きく影響しています。この時期はちょうど、ウェスタン・インパクトと称される欧米の列強が東アジアへ商品販路のための市場拡大を求めて進攻してくる時期に重なっています。その時期は東アジアの地域のシステムがウェスタン・インパクトによって伝統的な宗属関係の体制から近代の国民国家体制へと転換していく時期にあたっています。近世期の琉球王国の時代は、中国を宗主国として東アジア地域の諸国との間で行われた冊封・朝貢体制だった。冊封・朝貢体制は、宗主国である中国に琉球を始めとする周辺の小国、東の朝鮮、南のベトナム、ビルマなどが朝貢し、中国から冊封を受ける伝統的な宗属関係に基づいている。その近世期の東アジアの伝統的な宗属関係に基づいた冊封・朝貢体制が、欧米列強の進攻によって大きく崩壊していく過程が近世から近代へ転換の時期にあたるわけです。この時期から東アジアに、国民国家体制が形成されていくわけですが、その論拠になっていたのが万国公法という概念です。
これも皆さんがご承知の通り、欧米で形成された国家間の法システムで今で言う国際法の体系ですが、国家を文明国と半文明国、そして未開という三つに区分けして分類しています。この万国公法は文明国同士、特にキリスト教国家である欧米の国々が対等に結んだ条約を意味しています。しかし世界には、半未開あるいは未開の国々がある。例えば、東アジアの国々は半未開国であり、アフリカの地域は未開の国である。当時の日本は、欧米からすると半未開の国と見られていた。万国公法の体制は、キリスト教徒たる文明人である欧米人によって統治された国家間で対等に結ばれた条約であり、統治能力に疑問符が付された他の半未開あるいは未開の国々との間では不平等な条約が結ばれていました。統治能力のない半未開や未開の国々、とくに未開の地域を無主の地としてとらえ、文明国で統治能力のある欧米の国が未開の統治能力のない無主の地を植民地化してもよいということになるわけです。その中で、近世期の中国を宗主国とする東アジアの冊封・朝貢体制自体が、西欧列強の進攻によって崩壊し、中国へ朝貢していた国々も西欧の植民地になって喪失していきます。朝鮮には、1882年の壬午事変、84年の甲申事変において中国が武力介入します。これはかつて宗主国であった中国と親交を続けていた朝鮮との伝統的な宗属関係に基づいた関係が、欧米列強が東アジアに進攻したことにより、無論日本との関係もありますが、その宗属関係が崩れていったことを示しています。また、東南アジアでは、フランスがベトナムに進攻して問題が起こって、中国の武力介入により清(中国)とフランスの間で戦争が起こります。しかしフランスが勝利して、ベトナムはその後フランスの保護権の下に入ることになり、中国はかつてのベトナムへの宗主権を放棄することになりました。さらに、ビルマも同時期にイギリスの植民地となり、中国へ朝貢していた東アジアの国々が欧米列強の植民地となっていきます。そのような欧米列強の東アジア進攻によって近世期の中国を中心とする冊封・朝貢体制が崩れていく時代背景が、琉球処分の過程と重なっているわけです。その琉球処分の過程において琉球王国の旧士族層がどのような言論活動や行動を行ったのかが、今日の報告のテーマとなります。その中心に位置しているのが、琉球救国運動と公同会事件という二つの問題群です。
 その東アジアの転換期における近代日本の国民国家形成の過程の中で、琉球処分をどうとらえるのか。それについては、西里喜行氏が琉球処分のプロセスについて最も詳細に分析しています(「琉球処分と樺太・千島交換条約」)。
この論文の中で、西里氏は琉球処分の過程を5つに時期区分しています。第一期は、1872年琉球建藩前後から1875年の前後まで。その時期には明治政府の中で琉球に対して2つの議論があった。一つは井上大蔵大輔が建議した琉球の版籍奉還、つまり琉球は日本に属する地域だから琉球の版籍を奉還して貰うという考え方。もう一つは、当時の法的機関である左院の見解ですが、琉球は異族で日清に両属しているという捉え方です。後に明治政府の主流になるのは、前者の「琉球属邦論」と呼ばれる井上建議です。つまり琉球は日本国家の一部であって、琉球藩を設置して最後の琉球王である尚泰を日本天皇に冊封させ、藩の王として後に華族として処遇するという考え方です。しかし、そのような明治政府の琉球属邦論は、琉球王権が清国の冊封によって支えられていたから、琉球と清との冊封朝貢関係が維持され清国の冊封によって支えられている点からていると、さきの明治政府の属邦論は矛盾をきたすことになり、そのため明治政府は琉球と清の冊封朝貢関係を廃棄するように求めることになります。
その時に大きな転機になったのが、1871年の台湾事件です。ご承知のように、台湾事件は宮古島の貢納船が嵐により台湾に漂流して、そこで台湾原住民によって54人の宮古島民が殺害され、12人が救済された事件です。それに対して、琉球の帰属問題として当時日本と清との間で争われていたわけですが、明治政府は、当初、日清提携という政府の方針があったにもかかわらず、台湾出兵を一つの契機として明治国家の方針を脱亜入欧の方向に大きく舵を転換するきっかけとなります。そして、琉球をめぐる中国との関係においても、台湾事件は大きな転機になりました。明治政府は、台湾出兵の論拠として次のような点を挙げています。台湾の先住民族によって宮古島民が殺害されたわけですが、清国にとって台湾は化外の土地であり、清国によって統治されていない無主の土地にすぎない。明治政府は、先に述べた欧米の万国公法の文脈を踏まえ、その論点を台湾出兵の論拠の一つにしたのである。そして同時に、琉球というのは我が藩に属しているんだという論点です。それ故に「討藩ノ公理」として出兵ができるんだという論理構成を行っています。
第二期は、1875年7月の進貢冊封停止命令から79年3月の琉球問題が外交課題になるまでです。先に述べたように琉球藩を建藩した後でも、琉球と清との進貢関係が大きな障害になっており、明治政府は進貢冊封停止命令を琉球に命じることになります。清は、琉球問題を対日外交の基調である日清提携によって処理しようとしますが、その時期から琉球問題が外交問題として浮上して来ます。先の台湾出兵の講和条約の中で、琉球人の帰属について「日本国属民」という語句が清と日本の間で結ばれた協定の中に初めて文言として挿入されますが、その後も琉球の帰属問題は清と日本政府の間で外交問題としてくすぶります。しかしそれが、行政処分としての琉球処分によって大きく転換することになります。
第三期目は、1879年4月の廃琉置県から1880年3月まで。この時期には行政処分として沖縄県となったわけですが、しかし日清の間では外交問題化してくる。その過程で大きな問題として浮上してきたのが、琉球列島の分割の問題です。琉球分割構想の胚胎がこの時期あたりから出てきます。一般的に言うと、法制度的に日本国沖縄県になっているわけですから、琉球の帰属が明確になったと考えられますが、琉球の帰属問題は外交問題としてなお日清両国の間で争われることになります。その際、琉球列島の分割問題がこの時期からでてきます。清は、先に述べたように対日外交の基調は日清の提携路線を優先することでしたが、琉球処分の前から琉球旧士族が中国に亡命して、日本の処分に対して中国に救済を求めるようになります。この時期に、中国に亡命した琉球人の救国請願運動が非常に激しくなり、いろんな形で行われようになります。清政府の中で、対日外交の基調である日清提携と、かつての進貢国の琉球から亡命してきた琉球人の請願運動を重視する論者の間で、大々的な議論が行なわれます。
第4期目は、1880年3月から1881年3月までの琉球分割交渉の時期です。この時期には明治政府と清政府との間で、琉球分割構想を前提とした八回の政府間の交渉が行われます。ご承知のように、明治政府が分島(先島割譲)改約(清国内地通商権獲得)案を提起するわけですが、分島というのは先島を中国に割譲し、沖縄本島以北を日本に帰属させる案です。その代わり、改約として清国の中で日本が通商権を獲得するという取引の案を出します。これに対して中国政府も日本に対していろいろ議論があるわけですが最終的に、日清提携という対日外交の基調もあって、多少中国側と日本側で違いはありますが、交渉は分島改約案として妥結することになります。交渉が妥結して調印待ちになるのですが、清国政府内部から反発が起こってきます。次第にこの交渉調印に対して可否論が出てきて、事実上、その調印そのものができなくなって廃案になります。その際、当時の中国の外交を指揮していた李鴻章に亡命琉球人の請願運動が大きな影響を与えたと指摘されています。
先に述べたように、琉球列島の分島改約案というのは調印されずに廃案になるわけですが、廃案になった1年後の85年3月にも再び日清両政府の間で分島改約案の締結の可能性が模索されることになります。しかしそれも結果的には不成功になって、琉球列島の分割は行なわれず、今日に至るということになります。先ほども言いましたが、分割対象になった琉球の民族的抵抗、亡命琉球人の琉球復旧運動というのが、日清両政府の交渉の中で、とりわけ清の対日強硬論の論者に大きな影響を与えたというのが西里氏の強調している点です。
従って、日清の外交上の問題に琉球から亡命した脱清人の人たちが、様々な救国運動によって大きな影響を与えた点が指摘されています。つまり、今日の報告のテーマとして与えられた「明治期の沖縄自律構想」として、第一にその亡命琉球人の琉球復旧運動をどうとらえるかという問題があります。そして、実際、両政府間の交渉の過程において琉球から中国に脱清した琉球亡命人たちはどういう活動を行なったのかというのが、第二の問題です。
これまで脱清人に対しては、1970年前後まで、かつての琉球王国の旧支配階級士族が自己の特権的地位の確保のために動いた運動として、ほとんど否定的に捉えられていました。つまり、旧支配階級士族の自らの特権的な地位を守る自己保身のための運動にしか過ぎないと否定的に解釈されていたのです。73年に比屋根照夫氏が那覇市史の中で脱清人に対する論考を書いていますが、そのころは沖縄の近代史研究においてマルクス主義史観が大きな影響力を持っていた時期であり、例えば脱清派に関する県史の叙述と、那覇市史の叙述との間では解釈において若干の違いが見られます。比屋根氏は、脱清人を、近世期から近代の国民国家の形成過程において、国民国家に翻弄されたマイノリティーとしてとらえ、少数民族の問題や、琉球の独自の国家意識に基づいた運動として改めて問い直すべきだといち早く指摘しています。これは、今日での脱清人や亡命琉球人の琉球復興運動研究において基本的な認識になっていると言えるように思います。
例えば、近年では西里氏も、脱清人たちの琉球復旧運動というのは、琉球の自立的な自己回復の要求だったと記しています。それは、独自の国家意識に基づいた救国運動だったとも指摘しています。これは近世期における伝統的な宗属関係を背景にした認識だといえますが、独自の国家意識に基づいた救国運動だったと解釈されています。例えば脱清派は、琉球処分に反対し琉球王国の維持存続を掲げて清国に脱出し、琉球救援を清国政府に誓願した琉球藩民だととらえられている。さらに、西里氏は、そのような琉球士族の運動主体の実像に着目すると、「脱清人」より「亡命琉球人」の「琉球救国運動」として捉え返すべきだと主張しています。例えば、脱清人というのは明治政府の資料に出てくる言葉であり、当時の新聞にも脱清人という言葉がよく使われています。だが、脱清人という言葉自体が非常に曖昧といいましょうか、清から脱するとの意味にもとれますが、琉球から清に脱したとの意味でもとれ、新聞ではほとんど後者の意味で使用されています。明治中期にそのような意味で使われており、1970年代初期においても同様な意味で脱清人という語句が使われました。西里氏は、そのような意味を帯びた脱清人の語句を改めて再検討し、脱清人という言葉は非常に形式的であり、運動主体としての琉球士族の実像に着目すると、やはり「脱清」ではなく「琉球救国運動」だと強調しています。旧琉球士族の自律的な自己回復の要求運動であるとか、あるいは独自の国家意識に基づいた救国運動だということを強調する意味からすると「脱清」よりはやはり「琉球救国運動」だというのが、西里氏の指摘です。
その救国運動は、清に亡命した琉球人士族だけでなく、日清両政府や東京の外国の領事館や公使に対して琉球が一方的に処分されている状況に救済を訴える請願書を出した琉球人士族たちも同様です。西里氏によると、現在確認できるところ、47通の請願書があり、その内訳は明治政府へ16通、清国政府へ30通、オランダ公使に1通が確認されています。
また、それらの亡命琉球人による琉球復旧運動は、1879年の廃藩置県の以前と以後に大別されますが、西里氏は琉球処分のプロセスや日清両政府を中心とした政府間の交渉過程を踏まえた上で、亡命琉球人たちの行動を次の四期に分けて分析しています。
第1期、これは79年の行政処分、琉球処分以前から脱清人あるいは亡命琉球人達がいろいろと活動している。その時にもやはり、近世期の琉球王国という独自の国家意識や琉球と清との間に冊封・進貢関係があった歴史的経緯にもとづいて彼らは考えているわけですね。琉球はかつて日清両属に歴史に基づいており、その琉球を救国するため日本とは違う社稷(しゃしょく)の保持の目的を追求することが言われています。しかし、それに対して明治政府は、琉球はあくまでも日本の属邦で日本国の一部であり、日本に専属すべきだと処分を断行しました。その処分される以前において、琉球士族たちが明治政府に対して、いろんな請願を行ったのがその背景になっています。
第2期は、改めて琉球処分が現実の政治日程として出てくる時期にあたり、琉球人士族たちが在京のアメリカ、フランス、オランダ公使に宛てて救援要請をします。つまり、琉球人士族たちが東京において在京駐在の外国公使に対して請願・救援運動をする。一方では清に亡命していた琉球士族の場合も、この時期になると請願運動が一段と強まっていきます。国頭親方(毛精長)あるいは幸地親方(向徳宏)と呼ばれている久米系等の琉球士族たちですね。とくに幸地親方は、亡命琉球士族として請願運動においてとても中心的な役割を担った人物です。当時の清政府の対日外交の中心にあった李鴻章に対して、幸地親方はその補佐役として琉球の現状について直接説明をしていました。中国と琉球はかつて宗主国と進貢国との関係であり、そのことを重視した清の外交官である李鴻章は、琉球人の幸地親方を大事にし配慮しました。西里氏は、その対日外交政策において、琉球人の幸地の進言が李鴻章の心を動かして、大きな影響を及ぼしたと指摘しています。
第3期、第4期になりますと、行政処分としての廃藩置県が行われた後の問題として、琉球列島の分割問題がでてくる時期にあたります。日清両政府の間で琉球列島が二分割される話しが進められ、その切迫した状況の中で亡命琉球士族たちは分割案に反対する請願運動を繰り返し行います。その亡命琉球人の救国請願運動が、対日外交の基調として日清提携を重視していた李鴻章に対して強い影響を与える様になります。幸地親方については先に述べたとおりですが、他に有名なのは分島条約の調印を阻止するために、自決した林世功がいます。それら亡命琉球人の必死の請願運動が李鴻章などの清国内の分島条約調印延期派に影響を与えて廃案にいたります。その亡命琉球人の救国請願運動をどのようにとらえるかが、今日私に与えられた「明治期の沖縄自律・自治運動」についてどう考えるかの論点につながっているだろうと思います。
さて、明治期の沖縄自律・自治運動のもう一つは公同会事件の問題です。亡命琉球人の救国請願運動が親清派である頑固党の旧士族が中心だったのに対して、この公同会事件は親日派の開化党の旧士族が中心になっています。前述したように、1879年の行政処分としての廃藩置県(琉球処分)は、旧士族層に大きな以降に大きな衝撃を与えます。処分直後には旧士族層のほとんどが親清派である頑固党に属しており、彼らは明治政府による新体制へ強く反発して不服従運動で抵抗します。当初、明治政府は旧士族を何とか懐柔するために鎮撫説諭を行い、いろいろな地域を回って説得をしますが、それが中々うまく行かない。それに対して、旧士族たちは、連名の血判誓約書を作成するなど不服従の抵抗の姿勢をとります。しかし、明治政府はその後、懐柔策から武断策へ転回して、旧士族の反対派の代表を捕捉し拷問を加えて弾圧をします。例えば、中国へ脱清した士族が帰ってきた情報を得ると、その士族を脱清犯として捕まえて激しい拷問を加えます。そのような弾圧により、明治政府に反発していた親清派である頑固党の士族たちの中に動揺が生まれる状況になります。
そしてその状況に大きな転機をもたらしたのが、琉球処分の際に首里城を明け渡して明治政府によって強制的に上京・幽閉させられていた琉球王国最後の王であった尚泰が、1884年に一時沖縄に帰ってきたことです。その際に、尚泰は、明治政府への忠誠ととともに、琉球救国運動をしている脱清亡命者を批判します。これが、旧琉球士族にとって非常に大きな転機となります。すなわち、琉球王国復旧あるいは救国運動に身を投じていた脱清派にとって、その忠誠を尽くしていた琉球国王の尚泰が、琉球を処分した明治政府への忠誠と、復旧を求めた自分たちの行動を批判したわけでするから、その衝撃は大きかった。さらに、その発言を受けて明治政府は、琉球救国運動のために亡命した琉球士族を脱清した「国事犯」として法的処置として処罰することになります。そのような状況下で、尚泰から見放された亡命琉球士族は、明治政府の処罰とともに一般士民からも孤立するようになり、時代錯誤という批判を受けるようになります。
そのように時代の状況が進展する中で、1895年に親日派の旧士族である開化党の中から尚順や太田朝敷などが中心になって、琉球を愛国し日本も愛国するという愛国協会、後の公同会を創設します。愛国協会は、琉球も日本も二重に愛国するという意味で付けられていますが、琉球愛国を日本の体制内に存続させることを宣言し、その趣旨は公同会に引き継がれより鮮明な主張になりました。それについては時間がありませんので言及できませんが、1886年に創設された公同会趣意書を資料としてお配りしておりますので、どうぞ後でお読み下さい。
最後に自治の問題でどうしてもふれておきたいのは、太田朝敷の問題です。この琉球国王尚泰を沖縄県の知事にして沖縄人による沖縄県政をつくることを目指した公同会の運動については、佐々木笑十郎という人物がすっぱ抜いて、本土新聞に記事を投稿して報道され大騒ぎになります。それで明治政府が非常に激怒し、公同会運動を国事犯として処罰すると強圧的に警告するにいたって、同運動は胡散霧消するという顛末になります。ただ、その過程で太田朝敷が公同会運動に関して読売新聞に談話を発表しているのですが、その発言が明治初期の沖縄の自治運動を考察する上で興味深い問題を提出しているように思います。それは「沖縄県の自治問題」(『読売新聞』明治30年7月26日)という文章ですが、そこで彼は、公同会について「強いて命名すれば自治党と名づくべきや」と述べて、その「自治党の目的は沖縄県下の利益を進めると同時に帝国全体の利益を進めると欲するにあり」と主張している。その主張の中には、前述の琉球と日本の愛国の問題も含めて、沖縄の利益と帝国の利益との間には矛盾がないわけです。
後に、太田朝敷は「沖縄県政五十年」(大正六年)という本を書きますが、その中でも次のような主張を述べている。
「今日の地方政治は、如何に発達した地方でも、その実権がその地方人にあるとは限らない。寧ろ何れの地方でも、行政の実権は外来者の手にある。自治の権域が狭い今日の地方制度に於ては、地方庁は内務省の出張所たるを免れない。しかもそれを牽制して地方の事情に順応せしめ、地方民の要求に合致せしむるには、そこにある力がなければならない。それは即ち、社会的勢力である。あるいは社会的権威とか威力とかいうのが適当かも知れない。しかして政治的権力を尽く地方人の手に属するものとは限らないが、社会的勢力に至っては何れの地方でも、絶対にその地方人から離れるものではない」。当時、太田らが公同会運動を始めようとしたとき、やはり沖縄の実権は本土からきた鹿児島県を中心とした外来者によって実権が握られていました。地元の地方人として、そのような外来者が政治的権力を握っている中で、地元の沖縄人による社会的勢力を拡張することの重要性を強調して、その観点からそのような主張をしているわけです。そして、大田は次のように続けます。「もし地方の為政者にして、その権力の運用を誤るか、あるいは地方の事情に添わぬ政策でも行った場合には、その地方における社会的勢力が直ちに活動してこれを矯正するのが普通である。しかるに我が県政の第一期(明治12年から28年)における我が県民は、政治上の権力を共に社会上の勢力までも放棄し、あたかも食客の位置に置かれて顧みなかったのである。かかる地方は恐らく植民地のそとにはあるまい」と。
その大田の主張をみると、明治政府に対する忠誠や日本への愛国の問題においては前述した頑固党の亡命琉球士族の救国請願運動と大きな違いが指摘できるわけですが、しかし琉球に対する愛国の情という点においては公同会と脱清派の中にさほど違いがないように私には思えます。この公同会運動での太田朝敷の自治運動をどう考えるか。また、先の亡命琉球人士族の救国請願運動をどうとらえるか。そして両者が提起している問題を同考えるかが、明治期の沖縄自律と自治運動を検討する際に、重要な論点を提示しているように思います。  
最近、公同会運動に対する評価として、琉球王国で政治権力を握っていた尚家の尚順を中心とした旧士族階層が、日本国家による琉球併合に合意し、沖縄側から日本国家の体制内に参入するということを初めて自ら決断した事件だという指摘が森宣雄氏からなされています。公同会運動は、明治国家による上からの統合という行政処分としての琉球処分の後に、沖縄の有力な旧士族階層が日本国家に参入することを自ら決断したことを内外に示した事件だったという認識です。
さて結びにかえてですが、これまで「明治期の沖縄自律・自治運動」として脱清人の亡命琉球人の救国請願運動と公同会運動の太田朝敷の自治に対する考えの一端について話してきました。その明治期沖縄の問題を現在の自律・自治の問題としてどのように考えるか。むろん、自治研の皆さんが研究対象としている現在の戦後憲法下における自治権の問題と比べて、その時代背景や社会文脈も大きく異なっています。その中でどのように考えるのか。例えば、太田の自治概念の検討は勤惰沖縄における自治意識を考察するうえで非常に興味深い問題になろうかと思います。しかし問題は、歴史研究としてのその事実関係の分析ではなくて、明治期の時代状況や社会文脈と異なることを踏まえた上で、亡命琉球士族・脱清人の救国運動や公同会運動から、現在の状況下で私たちが何を読み取ることができるかが問われていると思います。
事実、西里喜行氏は70年代から90年代まで継続して亡命琉球人の救国運動を研究した背景には、70年代初期に氏自身が日本復帰論を主張して、その時に反復帰論の論者と脱清人に関していろんな議論を交わした経緯があるという。その時に反復帰論の論者が一つ論拠としていたのが、亡命脱清人の思想が含意している重要性についての指摘であった。それに対して当初、西里さん自身は階級論の観点から、60年代後半や70年代初期においては否定的にとらえて論じていた。しかし、その後いろいろな資料を探査し分析していくと、亡命琉球人が持っていた琉球人意識といいますか、あるいは独自の国家観の問題などは、今日の民族問題や民族自決権の問題、さらに植民地主義の問題を考察する上でも重要な問題提起を行っていると改めて考えるにいたったことを述べている。西里氏が亡命琉球人の救国請願書を集大成した資料集のあとがきには、当初の自分の意見は一面的だったと、その課題を改めて問い返すために、精力的に中国側の琉球救国運動関連の資料を探査し分析した経緯が率直に記されてる。そして、その明治期の亡命琉球人の問題を検討することで、現在の世界的な民族問題や少数民族の自決権、自律の問題、アイデンティティの問題につなげることの重要性を指摘している。
実際に、現在の自治の問題を考えるさいに、今の枠組みを踏まえた上での議論が中心だろうと思うのですが、しかし歴史的に形成された、今日の報告で言うと明治期の沖縄自律・自治運動の歴史を参照することによって、今の自治概念(自律・自立権・自決権)を相対化しあるいは拡張するヒントがあるのかどうか、あるにしても、ないにしても、その歴史を踏まえて議論する必要性が重要だと思います。以上です。


〇司会(仲地博)  大変刺激的な報告をいただきました。明治初期の琉球処分という東アジアの大激動のなかでの沖縄の自律運動を分析していただきました、特に西里先生の七〇年代から九〇年代の彼自身の考え方の変化を捉えまして、これは現代の、我々の自治を考える上でどのように参考になるのか、ならないのか、ここまで視点を広げる必要があるという指摘を大変面白く聞きました。


〇質問者(江上能義)  屋嘉比さんどうもありがとうございました。幾つか質問させて頂きます。
 まず、2の琉球復旧運動/亡命琉球人・脱清人の箇所で、47通の請願書が出されたとありますが、これらは同じ内容のものがそれぞれ出されたのでしょうか。


〇屋嘉比収  やはり、琉球を取り巻く時代状況が刻々変化しているので、その変化する状況を受けて、請願相手も明治政府、清政府、在京の外国領事館や公使などと変化しています。
行政処分の直前の時期と、日清両政府で琉球列島分割案が問題になっている状況ではむろん請願文の内容も異なって参ります。私も丁寧に読んでいるわけではありませんが、報告でもふれましたように西里氏が法政大学沖縄文研究所から、その請願書集成を発刊しています。それを見ますと、例えば1880年代に入ると、かつての東アジアで中国を中心とした冊封・進貢体制にあって、その進貢国が西欧列強に植民地化されていく中で、宗主国中国は軍事介入していくわけですね。清仏戦争の時には、フランスがベトナムに侵攻すると宗主国中国は進貢国ベトナムの要請で軍事介入します。中国がその軍事介入をした情報を、亡命琉球人士族たちは知っていて、清の方にその軍事介入の事例を出して、同じ進貢国である琉球にも出兵するよう請願するわけです。状況を背景として、いろんな形の請願を行っているんです。これは先の請願書集成を直接に読んでいただければ確認できます。勿論、在京明治政府への請願の内容と、在京外国人公吏への請願、中国の政府への請願書の内容にも違いがあり、時代状況によって違っています。


〇質問者(江上能義) もう一つ質問ですが。二枚目の太田朝敷の沖縄県の自治問題、読売新聞に出されたとありますが。これは、文脈からすると公同会の批判に対する反論といいますか、弁解としてだされたものでしょうか。そして、どういう反応があったのでしょうか。


〇屋嘉比収  本土出身の佐々木笑十郎という言論人が沖縄に来ていて、彼は非常に面白い経歴なんですが、本土の新聞社との関係があって、その公同会事件をすっぱ抜いて本土紙に配信しているんです。それが報道されると、公同会運動は時代錯誤的な復藩運動だと反発や批判が出てくる。そのような流れの中で、読売新聞で太田朝敷が弁明といいましょうか、公同会運動の真意について、沖縄の自治問題という社説の中で太田朝敷に聞くという形式で掲載されています。これは那覇市史の資料編の中に収録されていますので、それも直ぐに読めます。
 その中で、太田朝敷がこの文章の中で、公同会について自治党と言っています。この場合の「自治」は何かという議論になると思いますが、太田自身の自治概念を時系列的に精査しながら分析してみると、沖縄における自治の認識の変遷といいましょうか、面白い問題が分析できるのではないかと考えます。報告でもふれましたように、一般的にはやはり太田の主著である「沖縄県政五〇年」から引用したように、外来者によって明治沖縄の実権が握られている事にたいする反発といいましょうか、そのような視点が太田の中に一貫して存在していて、沖縄はけして自律しておらず、沖縄は植民地だという認識がある。だから頑固党の亡命琉球人とは明治政府への忠誠心に関してまったく対照的な位置にあるのですが、明治沖縄の現状認識や沖縄が自律せず植民地だという点において、両者の間にはある共通の基盤があるのではないかと思います。それは、比屋根氏が、クシャメまで本土と同様にすべきだとする発言から太田は単純な同化論者だと解釈されていた従来の議論に対して、太田の論述を精査してみると決してそのような同化論者ではなく、戦略的な同化論者だったと指摘しています。その議論を前提に考えてみると、報告でもふれた当時の琉球愛国と日本愛国との間に矛盾なくあるかどうかについては議論があるところですが、しかし太田の明治沖縄に対する認識は、亡命琉球人の救国運動の背景にある沖縄への愛国という部分ではあまり治外はないのではないかと思います。その点からも、太田における沖縄の自治認識を分析するのも面白いかなと個人的に考えています。


〇質問者(江上能義)  屋嘉比さんがおっしゃるように、太田朝敷のこの自治の考え方というのは面白いですね。勉強になりました。太田朝敷の自治概念の変遷みたいなことに研究を絞ってまだなされていないんですか。


〇屋嘉比収  はい。おっしゃるとおりだと思います。どうしても同化論がメインになりますので、自治の問題については議論が薄いと思います。やはり同化論を中心とした議論ですね。これは六〇年代後半での太田昌秀氏の「沖縄の民衆意識」によって形成された太田朝敷論を相対化する議論が、ようやく先の比屋根氏の研究によって提出された状況だと思います。そういう意味でのこれまでの太田論の展開という文脈があるものですから、さらに太田の自治認識という問題を含めて捉え直したら面白い問題が出てくると思います。


〇質問者(江上能義)  屋嘉比さん是非御願いします。どうもありがとうございました。


〇質問者(島袋純)  95年というのはこれは、日清戦争終了後と考えていいんですかね。愛国協会・公同会ができた・・・。それでちょっとお聞きしたいのですが。84年の尚泰の明治政府の忠誠を出したことと、95年の日清戦争の敗北がありますが、私が思うに95年の敗北が決定的な理由で、こっちこそが非常に重要で太田朝敷的な言説が非常に強まっていく。生き残る道はこれしかないと言うことで大転換して、それ以前は尚泰が何を言おうが、どうにかまだ琉球再建ありうるかなというような社会的な雰囲気があると思っていたのですが、その尚泰の影響と日清戦争の影響はどっちもどっちだと思うのですが、その辺をもう一度説明御願いできますか。


〇屋嘉比収  今島袋先生がおっしゃったように、決定的だったのはやはり、日清戦争だったと思います。旧琉球士族の頑固党という文脈で言うと、やはり尚泰の明治政府への忠誠や脱清派批判発言が大きいわけですが、しかしそれは沖縄全体でいうと旧士族という限られた層になるわけです。やはり沖縄全体にとって中国と日本との関係の認識が大きく転換したのは、日清戦争での日本の勝利が決定的だと思います。それ以降の、例えば日常風俗であるカタカシラを断髪した問題や、学校教育も日清戦争以降に就学率が高くなっていく傾向もありますしね。それと、資料的にいうと太田朝敷の文章は「選集」の中に収録されている文章も明治36年からなんです。それは、琉球新報は明治26年に創刊されていますが、現在まとまって見れるのは明治36年以降ですので、その前に太田が書いた文章が確認できないので前後の比較ができないという資料的制約もあります。


〇質問者(高良鉄美) 自律の問題というのが、「律」する方と「立」てるの方とむすびの方では両方触れられていますけども、やはり意識をして「自律」の問題というのを抱えていると思うんですけど。タイトルのこの「自律」の意味と、それから「琉球の自立的な自己回復の要求」とあるとこの「自立」は、その「りつ」でいいのかなというのがあるのですが、そこら辺をちょっと屋嘉比さんのお考えをお聞かせ頂ければと思います。


〇屋嘉比収  この表題は、島袋先生から与えられたテーマです。ここでは、「自立」と「自律」の違いには特別な意味は込めていませんが、そこは論理的に定義して区別をというよりも、歴史的な文脈で捉えた方がいいのではないかと思っています。歴史学を専攻していることかも、私自身はその問題を歴史具体的に捉えた方がいいように思っております。


〇司会(仲地博) 司会が質問をするのはあまりいいことではないかも知れませんが、私も一つ質問させてください。
 亡命琉球人・脱清人の琉球復旧運動と公同会事件というのは一つの流れの中の運動として考えられるんだろうと思っていたわけです。復旧運動がこれがダメだと分かったので、公同会運動と展開していたのかなと。これを支えた人たちというのは同じような階層の同じような雰囲気を持つ人々がこれを支えたとのかと考えていいのか、その辺を聞きたいんですけど、するとその運動は同じように評価をされなければいけないのではないのかなと。同じように評価をするというのは即ち旧支配階級が自己の特権を維持しようとするために、琉球救国復旧運動になり、その後は公同会運動になりと一連の文脈で一貫してとらえられるんですけども。今日のお話を聞いて、非常に私が面白く関心を持って聞いたのが琉球復旧運動を独自の国家意識に基づいた自立的な自己回復の要求と捉えて、そして公同会運動は日本の体制内に参入する事を自ら決断したという新しい評価の紹介だったわけです。この二つの運動は一つの流れの中で理解するとなると、そういうふうなバラバラの評価の仕方よりは、寧ろやはり、旧士族による自己の特権の維持運動と理解した方が一貫するのではないのかなと疑問を持ちました。


〇屋嘉比収  まさしくそこは議論のあるところだと思います。私自身の個人的な考えを言いますと、やはり亡命琉球人による琉球救国運動と公同会運動という場合にはまず担い手が違いますね。亡命琉球人というのは琉球王国の旧士族層で王国時代に青年期を形成した世代です。公同会運動・事件の場合には、やはり近代によって太田朝敷に代表されるように日本に留学をし、そして新しい明治国家の文明開化を現実に見聞した新しい世代の担い手です。ですから時代状況は、わずか10年、20年の違いですけど、やはり担い手が違うのではないかなという感じがします。しかし、亡命琉球人の例えば琉球に対する思いといいますか愛国の情と、太田朝敷の公同会における愛国の情というのは本当に違うのかどうかというのは、議論すべきだというのは先ほどから繰り返し述べている点です。その意味で、変な言い方ですが「切って繋ぐ」といいましょうか、違う部分を認めた上で、しかしその一連の流れで検討してみる。今回は公同会運動で終わったのですが、その後に謝花昇の民権運動もあります。あるいは明治20年代には先島の人頭税廃止運動等があります。明治20年から30年代の民権運動と、あるいはさっきの人頭税運動とのつながりもこれから検討しなければならない。その点はすでに伊佐眞一氏が示唆しています。例えば、史料的に直接に明示できなくても、歴史の記憶といいましょうか、それがあったのではないか。我々はすべてを受け継ぐのではなしに、今の時代文脈にあうものを過去の歴史から記憶として引き出すわけですね。明治初期の時代と抱える問題において、現在の時代状況や社会的状況も違う。しかしその中で今の2004年の時代において、沖縄の自治の問題を考えるときに、近代沖縄の歴史から何を読み直すことができるかが問われている。これは、歴史の中で直接脈絡はないにしろ、未発の可能性や可能態も含めて、現在の問題を考えて新たな構想を構築するときにとても重要ではないかなと思います。


〇質問者(高良鉄美)  今のと関連するかどうかちょっと分からないですが。沖縄の問題として琉球王国があってそれからの廃藩置県等いろいろあるわけですけれども、その中で沖縄の利益と日本全体の利益というような形で共通性を作り出しているというか、そういう形で言っているけれども自治を言うと形ありますよね。その時に、廃藩置県という時期には他の地域、沖縄以外の地域にはそういう運動はあったのか、あったとすれば、そういう運動の最後の問題として日本国家による日本琉球併合を同意したというような表現がありますけども、そういうような展開といいますか、他の地域も江戸時代の藩といいましょうか、もうちょっと独立制限あったようないろんな問題から自ら選び取っていったというような表現があてはまるのかどうかという部分はいかがなんでしょう。この一つとして沖縄があるのか、それとも全く種類が違っているからあるのか、つまり公同会という考え方は、日本全体の利益の問題もあるので、果たして沖縄だけの問題としての公同会なのかですね。


〇屋嘉比収  非常に重要な指摘だと思います。公同会自体の文脈で言うと、明治政府の忠誠を担った上での沖縄の発展を捉える、あるいは国家の中の一つの地域の発展という事を考えてみると他の地域でも同様な議論や動きが十分にあった可能性があるように思えます。亡命琉球人の場合には国家が崩壊して、新たなものをつくるという事でいうと、沖縄は独自の歴史性をもっている。それは戦後憲法の問題にもあてはまりますね。先日の憲法記念日の講演会で徐京植氏が、沖縄は平和憲法を自ら獲得した点で、与えられた本土とは違う印象を受けたと述べていました。それは、占領下という状況の中で与えられた形での人権意識ではなしに、自らが獲得していった歴史という観点からすると、やはり沖縄は日本の他の地域とは違うと思います。少し話が飛びましたが、やはり亡命琉球人の問題というのは他の地域にはない沖縄の特徴だろうし、他方で公同会の問題は他の地域においても多分似たような問題があるのではないかなという気がいたします。それに関連して、先程仲地先生もふれておりましたが、西里先生自身が90年代まで亡命琉球人の救国請願運動に関心を寄せて研究しているというのは、60年代から70年代の復帰運動で議論した課題があって、その問題は今日においてもけして看過できない。西里先生が法政大学の請願書集成集の中で書いた前書きと後書きは非常に感動的な文章なんです。つまり70年前後に反復帰論の論者と議論した脱清人の問題は西里氏の中で終わっていない。脱清人は日本国家に併合されることに反対し、国民国家とは違った別の構想を持っていたということで、反復帰論の人達はそれを評価する。西里氏自身は、その議論に最初のうちは非常に否定的、彼らは旧支配階級であり、特権的な旧支配階級の自己保身だととらえ批判した。しかし、その後脱清人の資料を細かく調べてみると、その捉え方は一面的ではないかと自ら疑問を持ち自身を批判している。その研究過程で収集した資料を先の本によって刊行したわけです。西里先生の中では60年、70年の復帰の過程で論じた課題はけして終わってない。ずっと継続されている。この明治期の琉球救国問題が今の沖縄の問題を考えるときに、重要なヒントをもたらすという認識が、多分、西里先生の中にはあるわけですね。それは先に述べた復帰の問題や独立論も含めてそうですが、また95年の少女暴行事件の際にも沖縄の中で自立権とか自決権の問題が何度も反復された。この問題は、本当に終わったのかどうかということは常に問われているような気がします。高良先生が指摘された問題については、他の地域のことが勉強不足なので分からないのですが、それは非常に面白い問題だと思います。


〇質問者(江上能義)  公同会運動での評価で森さんの日本体制に参入することを自ら決断したというのは、一般的に定説で受け入れられているんでしょうか。


〇屋嘉比収 これは森宣雄氏が提起した視点で、新しい視点だと思います。これまでは旧士族、公同会もそうですが、世代は違っていても尚順に代表される旧琉球士族の特権的階級の自己保身という議論については一般に指摘されていた。この公同会運動を沖縄側から体制内に参入する運動だったことを明示したのは森氏だと思います。


〇質問者(江上能義) 亡命琉球人・脱新人、この方々は数にしてどれくらいで、これは結局願い叶わずして中国ではてるのですか。


〇屋嘉比収 勿論帰って来る人もいます。はっきりした数字はわかりません。十何年ずっと中国に滞在して、有名な頑固党の党首がずっと救国運動して中国で亡くなっていますし、林世功のように自決した人物もいます。琉球併合が進展するなかで、多くの人は琉球に帰ってきたと思います。新聞で確認できる数だけでも結構います。


〇司会(仲地博) 屋嘉比さんの報告は大変興味深いものがありました。ありがとうございました。
(拍手)



© Rakuten Group, Inc.